三斎流とは

三斎流とは

三斎流の歴史と伝統

細川忠興公
細川忠興公

三斎流とは

三斎流は、利休七哲の一人細川忠興公を流祖とする茶系であります。三斎公は、元和六年剃髪して三斎宗立と号され、この称によって古くは三斎公御流儀と称していた様であります。 三斎公は利休の点前を改めなかったと伝えられており、現在伝わっている点前も、他の流儀に比して大変丁寧な所作で、古い形が比較的多く残されている様に思います。

出雲地方への伝来

三斎流は、細川三斎 ─ 一尾一庵 ─ 稲葉正喬 ─ 中井祐甫 ─ 志村三休 ─ 荒井一掌と継承され宝歴年間松江藩士林久嘉・高井長太夫・矢島半兵衛の三人が荒井一掌に師事し、 これらによって三斎流は出雲地方に伝来することとなったのであります。

荒井一掌

荒井一掌は江戸麹町に閑市庵を営み、古帆宗音と号し当時の大宗匠でありました。味噌屋を業とする商人ではありましたが、武士の血筋をひき武道にもすぐれ皆伝の後、 駿河国原の宿松蔭寺に禅風を鼓舞した白隠禅師に参禅し修業すること九年、禅師のもとを辞するにあたって、師より掌に一の字を与えられ、以来一掌と号したといわれています。 松江市普門院に残された、長い白髭をたくわえ眼光鋭い風貌の一掌晩年の画像は、一道に達した一掌の人柄をよく物語っているように思われます。

一掌に師事した二人

一掌に師事した三人のうち林久嘉は医師であり、宝歴十三年不昧公の侍医となり、十三才の不昧公はこの頃茶の湯に親しみ、 朝夕顔を合わす久嘉は不昧公にとって恰好の茶の湯に関する話し相手ではなかったかと考えられます。 話のうちに荒井一掌の事に及び、ここに不昧公は荒井一掌を大先生として尊敬し、このことは公の書簡などにより確かめる事ができます。 林久嘉は江戸勤番が長かったのに反し、高井長太夫は出雲在国が多く、従って出雲、伯耆地方の三斎流は高井長太夫に負うところが多く、 その道統は普門院観月庵を営んだ恵海法印に伝えられ、その後普門院代々の住職によって連綿と受けつがれてきました。

観翠庵森山祥山宗匠

明治二十六年、観月庵六世新々庵得忍法印示寂の後、寺は一時無住となり三斎流の道統は寺をはなれて在家に移り、 川津村久保田梅屋翁、次いで木村宗七翁、渡辺宗世翁と受けつがれてきました。 朗庵宗世居士は観月庵に住して流儀の普及に努められ、晩年は境港に移られたが、その最晩年の門弟が観翠庵森山祥山宗匠であります。

観翠庵森山祥山宗匠は、三斎流再興の熱情に燃え、大徳寺高桐院に数年の間止宿して都の茶風を研究し、その後出雲市に観翠庵を営み子弟の薫育にあたりました。 観月庵十一世を継承したものの観月庵には入らず、一掌以来の三斎流の道統は出雲市に根をおろすことになりました。

観翠庵道場
観翠庵道場

細川家より三斎流の認可賜る

昭和二十九年、東京国立博物館後庭の応挙館で催された三斎公三百十年遠忌を機に、 細川護立公より三斎流家元の認可を受けられ、大西良慶・竹田益州・山田無文老大師方の祝福のうちに名実ともに 三斎流の再興を果たされたのであります。昭和三十七年には田部長右衛門様の絶大な後援のもとに 出雲市観音寺境内に立派な道場が完成しました。

家元観翠庵二世宗瑞宗匠の誕生

昭和五十年、祥山宗匠古稀を機に、その道統を宗瑞宗匠に譲られ、細川護貞公御夫妻の御臨席を頂き、盛大な道統継承の式が催され、 ここに家元観翠庵二世宗瑞宗匠が誕生いたしました。

観翠庵宗瑞宗匠は昭和五十一年九月より神戸市祥福寺の山田無文老大師の下で得度され、一介の雲水として修行されました。 祥山宗匠逝去の後は庵に帰り、流儀の発展に努められました。 ところが、平成六年秋、六十歳を目前に急逝されました。

宗瑞宗匠から宗育宗匠へ

細川公は宗瑞宗匠の急逝に深く御心を痛められ、現在まで伝えられた三斎流の道統を絶えることなく継承させようとの有難い思召しによって、宗瑞宗匠夫人育子様に細川家より家元継承認可が授けられ、ここに宗育宗匠が誕生したのであります。女性ならではの視点も取り入れ、三斎流を盛り立てられました。

三斎流の新たな息吹

平成十五年三月、宗育宗匠のご息女様とのご結婚により、後に当代家元となられる宗浦宗匠が出雲に来られました。平成二十二年十一月、細川家御当主細川護熙公にご臨席いただき、三斎流道統継承式が盛大に行われ、観翠庵家元四世森山宗浦宗匠が誕生し、現在に至っております。